2010-09-02

Franny and Zooey

海外文学を今も滅多に手に取らないのは心のどこかで日本文学だって理解しきれないのに外に目をやるなんて贅沢なことだ、なんて気真面目すぎる部分が根付いているからであって、名前とか地名とかが全部カタカナだと覚えにくいという子供みたいな言い分もあるけれど、これはだいぶ昔に読みました、そしてひどく印象深かった一冊。





うまく言葉には表せないけれどすごく影響をうけたし心のどこかにいつもフラニーがいるような気がして、だからこの本が好きだとか誰かに伝えることが恥ずかしくて触れずにそっとしてきたのに、今年のはじめ、サリンジャーがいなくなってしまった事を急に思い出して、また少し悲しくなった。

人間なんて完璧じゃないし自分もどう頑張っても完璧にはなれないし、だからこそ目の前にいる自分以外の人に完璧を求めるなんてもっと無意味だし、それでも完璧、とはいかなくても理想には近づけるように自分を運ぶ行為はいくつになってもやめたくないと思うけれど、ふと立ち止まるとその理想像ですらあやふやになってしまっているような気がして急に不安になったり後ろを振り返ると過去のあれこれに飲み込まれそうになるから必死で顔を上げるようにして、ただあまりにもスノッブな大人ばかりに囲まれるとその行為自体もよくわからなくなってしまうんですが、年を重ねる=大人になるということじゃないんだと気づいたあの日からどうも年齢は信用ならないもので、おかしな屁理屈とともに理論でねじ伏せられてそれがどうしても矛盾としか思えず、そして矛盾している人が矛盾をさらに矛盾をうむ、それは矛盾を作り出していないと正当化するためのもの、それはいかがなものかと奮い立ったところで世の中にげんなりするだけなんてことはほぼわかりきったことゆえ、蜘蛛の糸に絡まったような悪夢もさることながら現実だってけっこうシビア。
出来るだけ自分にとって心地よく過ごせたら、と思うのですがきっと難しい世の中なんだろうな、妥協とか諦めなしのそれは。





ちいさなことに傷ついて、ちいさなことに感動、ちいさなことで大きく笑う。
世界が道徳を失っても、それだけはなくしたくない感情が揺れる部分は、一番見えにくくて、そして美しいところ、なくなっても気がつきにくい、あたりまえという感覚。
たとえ生きていてもすれ違うことなんてないにしても、今まで地球のどこかにいたサリンジャーは本当にいなくなってしまったんだな、と思いながら読み返すと「わたし、シーモアとお話したい」というフラニーの一言がぎゅっとまとまって飛んできて、なんだかちょっと切なくなったりして、なんとなく。



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