2015-10-18

gentlewomans


気がつけばしっかり秋で、けれど相変わらず同じ本ばかり読んでいるこの頃。
もう何年も読んでいてもそれでもまた読みたくなってしまう本、不思議なものです。
ここ数年、私を囲む四人の女性作家について。


【江國香織 / 桐野夏生 / 松浦理英子 / 鈴木いづみ】


「現代文学において江國香織が占める(とされる)位置は、私には不当に思えてならない。もちろん、現代的な女性作家ーそれも「おしゃれな」ーの代表として種々のメディアに登場し、出版する作品はいずれも多くの女性読者に歓迎され、さらに映画化・ドラマ化の常連であり、等々、といった彼女のありようは、あえかに漂う〈女性性〉の雰囲気も含め、「女性作家」という存在への世間の期待そのものであり、またそれをそのまま現実のものとしたのが表像としての江國香織であるともいえる。しかしその反面、彼女の作品それ自体に対する評価は、限りなく微妙に的はずれだ。」
(文藝2010年 秋 世界は〈ことば〉でできているー江國香織の文学ー菅聡子 参照)

世間のイメージが先行して、だから私は友人たちに進められるまで江國さんの本を読んだことがなかったのだ、というのが明確にされている菅聡子さんの論考。“誤読している人”による“限りなく微妙に的はずれ”なイメージを真に受けていた私は、絶対に合わない本だと勝手に思っていました。
ふわっと柔らかく少しだけ風変わりだけど女性が好むおしゃれな小説というのがインプットされていた江國さんのイメージで、誰かのレビューを読んでもそういう本なんだなと思って蚊帳の外へ押しやっていたけれど、なかば強引に「それ違うって!絶対好きだから読んで!騙されたと思って!」と私に進めた彼女たちは江國さんの本質をきちんと見抜いていた、素晴らしく、そして稀有な読者なんだなと思います。
見過ごしがちな実はかなりエグい設定や登場人物、それが江國さんの洗練された文章とフィルターを通すと全てが美しく感じてしまうけれど、本当は背筋が凍るようなホラーのようであったり、いくつものブラックホールが散りばめられている小説。それもささやかに、無言で。だからそれに気が付かなければ“ほの甘い”小説で終われる。でもその闇に引きずり込まれてしまうと身を委ねるしかなくなってしまう。もしかしたら気が付かなければよかったのにと思ったところでもう遅いのです。
私が江國さんを読み続ける理由は、平熱に戻してくれる作用があるから。高ぶった気持ちはきちんと抑えてくれて、沈んでいるときはゆっくり引き上げてくれる。きっと波長が合うのだろうと勝手に思っています。

なかでも印象的なのは“望んでする絶望”のこと。
これは「ウエハースの椅子」という小説のことを江國さんがそう表現していて、これほどまでにしっくりくる言葉があるだろうかと胸を打たれたのを覚えています。閉じ込められた恋愛と絶望、そして嵌り倒した末。
たしかに絶望というものは、望まれた瞬間に光を放ち始めるんじゃないかな。ごく微量の、すごく繊細な。それに魅せられてしまうと目が離せなくなってしまう。生気のない光はきっとこの世のものとは思えないくらい幸福で美しく、けれど現実ではないので日々薄らいでいく。やがて光が途絶えると、自分のせいで途絶えさせてしまったことに気がつき、そしてまた引き寄せてしまう、その繰り返し。望まれた絶望が放った光だけを目にすれば、“美しく切ない”物語で終わるけれど、世の中ってそんなにきれいじゃないということを淡々と思い知らされる。
江國さんの本を読むと自分が何も知らないちっぽけな子供になるような気がして、ああだから平熱に戻してくれると感じていたんだな。ごく自然に素へ戻してくれる本、日常に欠かせない大切なアイテムです。



平凡な主婦が殺人を犯す「OUT」で米ミステリー界のアカデミー賞といわれるエドガー賞に日本人作家として初めてノミネートされ、幼児失踪を描いた「柔らかな頬」で直木賞を受賞し、数々の大作を書き続ける桐野夏生さんは、とにかく妥協を許さずとことん突き詰めていて、本当に完成された作品を世に出す作家という印象。ものすごい才能がある人の文章を読ませてもらっている、とひれ伏したくなる一方、それでいて桐野さん自身主婦で子育てもしているというから一体どうなってんだと神様に詰め寄りたくなるほど。
事件に関連した小説も多く「グロテスク」や「残虐記」は実際の事件も調べるきっかけになっています。桐野さんのすごさはノンフィクションを題材にしていても必ずフィクションにしてしまうところ。事件をよくよく調べたあとにもう一度読んでも、現実に起きた事件の残酷さ以上の誰かの荒涼が残る、そしてその誰かというのは実際の事件の被害者とは結びつかないほどにフィクションで、完全にひとつの別世界に仕立てあげられていると感じます。

また過去に「白蛇教異端審問」というエッセイも出版していて、賛否両論だったみたいですが、私はこれを読んで桐野さんのイメージが和らぎ、更に好きになりました。
直木賞を受賞する前後の日記や書評など、小説の中から知ることの出来ない桐野夏生という人間像。救急車で運ばれるほどの喘息の発作を起こしながら原稿に向かい合い、合間に文句を言いながら夕飯の支度をする。“空想に浸る桃源郷状態で家庭のマネジメントが出来るはずがない”と自分ほどの外注主婦は滅多にいないと言う。「新潮」に寄せられた批判に真っ向から対立する。亡くなった母親の遺品を見て涙ぐむ。あ、桐野さんは人間だったんだとようやく実感できた一冊。なんかこう血も涙もない(すみません)冷酷で完璧な人のような気がしていたので安心しました。

「女にはどこか命を引き受ける覚悟がある。命の始まりを見た畏怖とよろこびが遺伝子に組み込まれているせいかもしれない。その感覚は微妙で、個別的である。しかも、荒々しく、うっとうしい。
ある人々はそれを「母性」と呼ぶだろう。が、名付けられた途端、その感覚は中で揺れていた水分を失い、乾いた器だけになる。振りかざされたらたまったものではない。」
(白蛇教異端審問 ショートコラム 時のかたち参照)

桐野さん自身が出産を経験したのちに発表されたのが「柔らかな頬」、子供が失踪事件に遭遇した母親が大事な「時計」を失ったと苦しむテーマの話。出産後に生命の尊さについて書くという流れはリアルだし小説家だったら書くのが自然だろうなと思うけれど、それが失踪からの生死の時間軸にどうしたら辿り着けるのか。生まれ持った特異な才能というのはこういうことなんだろう。




松浦理英子さんを知ったのも友人から「ナチュラル・ウーマン」を進められたのがきっかけ。
女性同士の恋についてこんなにも赤裸々に突き付けられると強烈すぎて最初はものすごく戸惑います。けれど読み進めると、同性愛の物語を読んでいる気がしなくなる。他人同士が刳り合いながらも結びつき関係を深めていくさま、まぎれもなくひとつの恋愛がそこにはありました。異性ではなく同性間で、ただそれだけのこと。どこかで異質だと思っていた世界と自分の感覚がごく自然につながるきっかけを与えてくれた本です。表面的なこと(ステイタスや視覚的な姿形など)を取り払ったあとの感情にわざわざジェンダーを絡める必要性ってあるんだろうか?
それから松浦さんの文章はずば抜けて高貴であるという印象。過激であり剥き出しでヒリヒリとしているのになぜか透明感のある洗練された言葉たち、幾度と無くページをめくっても感嘆のため息が漏れます。
「ナチュラル・ウーマン」の最後は文章として一文だけ読むには飛び抜けた異彩を放つわけではないのだけれど、その前の壮絶な展開を全て飲み込んでからあの一文を読むと、目眩がします。あの文章で締めくくった松浦さんにはもうお手上げとしか言えません。素晴らしい小説にたいして「唸る」という意味を教えてくれたのは、この一冊でした。
松浦理英子さんは大学在学中の19歳のときに「泣き屋」と「笑い屋」との奇妙な交流を描く「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞、芥川賞候補になっています。この「葬儀の日」という処女作を初めて読んだ日は、なんだかすごく自分ががらんどうのような気分になりました。勿論、作品が素晴らしすぎて呆気にとられてしまったという意味で。私がもし19歳でこのような作品を作り上げたとしたら、きっと自殺しているんじゃないかなと。そう思ってしまうほどの確立された世界でした。
「ナチュラル・ウーマン」「葬儀の日」「セバスチャン」に共通する精神的サディズム/マゾヒストに魅せられてしまうと、確実にネジは一本外れます。ありふれた薄っぺらい世界の向こう側、ドラッグのような作用がある。だから何度も繰り返し読んでしまうのです。



そして最後に鈴木いづみという人について。
ヌードモデル、ピンク女優、そして作家。バチバチのつけまつ毛、おぼつかない黒目、呂律の回らない喋り方、存在が70年代を体現していた、といわれています。
「理屈はあとだ、みんな死ね」といった“いづみ語録”の印象が世間的には強く、足の小指を切断し週刊誌を賑わせ、アルトサックス奏者と結婚し娘を授かるもストッキングで自殺、享年36歳とフルスピードで過激に生き抜いた人というイメージ。
彼女を知ったのも“いづみ語録”がきっかけで、ただそこで止まっていたのですが、数年前に初めてエッセイを読み、度肝を抜かれました。女性性を全面的に押し出した勢いのある激しい人かと思いきや、ものすごく繊細でしかも文章の書き出しもつなぎ方も美しかった。時間をかけてじっくり書いているというよりは、口をついて出た言葉がもうすでに完成形といった印象。彼女の文章はエッセイでも小説でも虚無感に包まれているけれど、今出回っているような“あざとさ”が全く無い。ときに愉快で、けれど急に翻り傷を増やし、そしてまた笑い出す、その振る舞いが自然。そして今読んでも古さを全く感じさせない、むしろ研ぎ澄まされた文章。
エッセイ「いつだってティータイム」と小説「ハートに火をつけて!」が特に好きです。
あともうこんなことは恥を忍んで言いますけど、これ私の脳の中を覗かれたのかなと思うほどそのまま書かれていることが多い。エッセイではかなりそう感じます。
彼女自身自分のことを“コンプレックス(複合感情)はひと一倍だし、つねにアンヴィヴァレンツ(愛と憎しみのような両極端)にひきさかれている。”と表現していますが、まさにそれ。そしてそれを見抜かれたくないから包み隠して平らに生きようとしているのに、ありありと晒されちゃってる。この人のこの考え方は自分と似ているなあと思うのはたまにあるけれど、「この人は私?」とまで感じさせたのは彼女だけです。才能があるひとは他人を錯覚させられるのだな。
なかなか書店では見かけないこともあり、勿体無くてまだ全て読破していません。迂闊に手を付けられない危うさがある。



圧倒的に女性の作家が多い私の本棚。
特に上記の作家による本たちが自分の中に染み付いているなと、たびたび感じることがあります。それは恥ずかしくてとても口には出せないけれど、なによりも贅沢な習慣。





No comments:

Post a Comment