2017-06-05

やめるときも、すこやかなるときも



「やめるときも、すこやかなるときも」窪美澄

“忘れられるはずなんてない。
僕が生まれて初めて結婚しようと思った相手のこと。
家具職人の壱晴は毎年十二月の数日間、声が出なくなる。過去のトラウマによるものだが、原因は隠して生きてきた。制作会社勤務の桜子は困窮する実家を支えていて、恋とは縁遠い。
欠けた心を抱えたふたりの出会いの行方とはーー?”



きっと多くの人が聞き覚えのあるこの文章はどこか高貴で、けれどなぜか有無を言わさない支配的な何かが感じられて、恋愛小説にこのタイトルをもってくる窪美澄さんのセンス、平積みされていたのを見た瞬間に唸ってしまいました。
デビュー作の「ふがいない僕は空を見た」から読んでいて(このタイトルもブックデザインも当時信じられないくらいセンセーショナルだった)、最近も「夜のふくらみ」「アニバーサリー」「雨のなまえ」と窪さんオンパレードしていました。普段自分が好きな複雑な事件性とか心理戦のような要素はなく、それでも定期的に読みたくなってしまう窪さんの小説、なんでだろうなとこの本を読み終わった時に改めて考えてみたのですが、文章が丁寧とか攻撃的な要素がないということだけではなく、目に見えない母性というものを感じるからかもしれないと思いました。我が子を守るというスポット的なものではなく、もっと大きな何か、誰でも、もしかしたら私でも受け入れてくれるのではとさえ思ってしまう懐の深さ。読んだ本全てに通じる、安定的なぬくもり。性的な描写もセクシャルな出来事だけではなく、命や生きることに繋がっていく気がする。
それから女としてどう生きるかということ。結婚してもしなくても、子供を産んでも産まなくても、窪さんのフィルターを通すとそのことに正解はないし、また不正解でもないんだと言われているような気がします。私は母親という存在から何かを教えられたという記憶が無いので、小説のなかであからさまな表現になっていなくても道徳的なことを教えてもらっている感覚もあります。女として生きていく道はたくさんある。どの道を選択するのかは自分で決めなさい、と。


家具職人の壱晴と制作会社勤務の桜子が友人の結婚式で出会い、そこから二人が距離を徐々に縮めて相手を知ろうとしていく物語。すんなり恋人同士になれないのは、お互いに欠けた部分を持ち合わせているから。過去に囚われている壱晴と恋愛が分からない桜子。壱晴の固まった心を少しずつ解いていく、30年以上生きているからこそぎこちなくなってしまう不器用さと二人の素直さに心が洗われていくようでした。大人だからと平気な顔をしていても脳と身体は繋がっていて、訴え掛けるように身体に不調が現れる。無視できない状況に陥ってから初めて脳や記憶を誤魔化そうとしていた事実がどれだけ自分にとって大きな負担だったかを初めて思い知る。思い当たる節がある人は多いのではないでしょうか。一人ではどうしようもなかった闇を他人の手を借りて抜け出す。壱晴は過去と向き合い、それから桜子と向き合う。こんなにゆっくり進んでいく恋愛小説なのにもどかしさはなく、お互い維持を張っているかのようなやりとりも現実味があってすごく好きでした。なんていうか、ポンポンうまくいってダメになったらハイ次〜みたいな身軽さを持ち合わせていない人だって世の中にはまだまだたくさんいるんだ。その不器用さがひどく清潔で、好感を抱きました。

誰とも分かち合えない傷を抱えた人が背中を擦ってもらえるような本。押すわけではなく、擦ってもらう。足りているようで足りてないこと。
自分に折れそうになったらまたこの本を開きます。過酷な環境や運命に立ち向かい、ありとあらゆる困難から立ち上がった強くて温かい人たちがたくさんいるから。優しい処方箋のような一冊。





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